コラム「気象の小窓」はこちら

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1. はじめに
 私が財団法人気象協会(現(財)日本気象協会)に就職したのは、工業高校を卒業した年の昭和31年4月である。創立から6年目の春であった。
 当時、職員は20名足らずの組織で、私を含めて新人が4名、中央気象台(現気象庁)関係のOB4~5名が同時に就職した。
 昭和16年12月8日、太平洋戦争とともに、気象管制が行われ、気象データの公開は禁止された。
 やがて終戦を迎え、昭和24年、気象官署改革が行われ、中央気象台と札幌、仙台、東京、大阪、福岡の5つの管区気象台となった。
 当時、占領軍に支配される中、米軍マッカーサー元帥によるレッドパージが行われた。組合活動をしていた職員の首切りがなされた。
 その一員であった、創始者の毛利さんが、これからは、気象データが重要視される時代が来ると予想した。官である気象台では一般に対する気象サービスが出来ない。それなら気象知識の普及啓蒙、気象サービスを行うことを目的に、「財団法人 気象協会」を創立し、昭和25年5月10日、運輸省から認可され、千代田区竹平町(現竹橋会館)の中村記念館の一室で誕生した。
2. 主な気象事業の沿革
 日本の気象事業は、明治5年旧7月23日、函館気候測量所(測候所)の創立から始まった。そして、明治8年6月1日(6月1日は気象記念日)、東京の赤坂葵町三番地にあった内務省地理寮内で初めての気象事業を開始して、1日3回の気象観測が行われるようになった。
 明治16年2月16日、気象電報が開始され、各地から観測データが東京気象台に集まるようになり、天気図第1号が作成された。翌17年6月1日、日本で初めて1日3回の天気予報が発表されるようになった。新聞に天気図が掲載されるようになったのは、大正13年8月21日からである。
 昭和7年7月1日、富士山測候所が開設、昭和12年には気象観測船が進水し、気象事業もますます充実してきた。
 残念ながら、昭和16年12月8日、太平洋戦争の開始とともに気象管制が施行され、気象データは、一切外部には公開されなくなった。
3. 私の仕事
 私の最初の仕事は、東京管区気象台、技術課観測係での気象観測の実習から始まった。そして1年間の技術課レーダー係でのお手伝い、協会に戻ってからは解説予報の業務、販売課では図書や気象測器の販売、初めての地方転勤は長野支部(現長野支局)長、本部に戻って事業部長代理、南関東センター所長、この時代には、銚子、甲府、水戸などの赤字支部長の兼務が多かった。本部事務所内にあった南関東センターが横浜に移転してからは、事業普及室長を最後に他本部に転出することになった。
 当時の事業本部長から頂いた辞令は、福岡本部(福岡支社)の事業部長であった。当時の福岡本部の事業内容は、気象情報関係が約5億円、調査関係が約4億の受注状態で、勿論赤字状態であった。赴任当初から当時の金子総務部長に毎日言われる言葉が「1億足りない」であった。
 しかし、それから3ヶ月後には早くも見通しが立った。東京の海洋関係調査を行っている(株)東京久栄の伊藤調査部長が私の元を尋ねてこられた。山口県にある日石下松精油所の環境調査の気象部門を担当していただけないか、と言うことであった。見積もりでは軽く1億円を超えた。この契約が成立してから、総務部長や福岡本部長を兼務していた新井東海本部長の態度ががらっと変わった。
 その昔、他社の友人から言われた言葉を思い出した。良いことしていれば「仕事なんて人に付いて回るよ」であった。
 そして地熱発電調査2件、九州電力(株)の火力発電2カ所のリプレイスなどの調査業務受注が出来て、順調に業績が伸びた。
 3年3ヶ月の在任を終えて再び東京本部(首都圏支社)の事業部専任主幹、そしてサンシャイン60への移転の話が出てから総務部に配置換え、移転推進委員会委員、委員会事務局長で移転の準備やら移転の実施に当たった。
 引っ越しも一段落した平成10年1月10日、私もとうとう還暦を迎えてしまった。そして3月30日をもって退職する事にした。
 18歳で社会人となって42年間、楽しいこと、辛いこと、悔しいこと紆余曲折あったが、なんとか無事に仕事を終わることが出来た。皆様方に「有り難う」と感謝申し上げる。
 いまでは週休7日制の毎日、朝夕は愛犬(モモ)の散歩、春から秋にかけては植木や草花の手入れ、最近では、杵屋吉千代先生の元で「長唄三味線」のお稽古も行っている。気軽な生活を毎日送れることに感謝している。
 雨の日や暇な時を利用して協会在籍中の出来事を思いつくまま綴って見た。
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