特別コラム「昔の予報官」

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こんやのあさって
2003.8.28
森田正光
 「紺屋の明後日」ということわざがある。

「紺屋」というのは染め物屋さんのことで、その昔、染め物は乾かしたりとかで天気に左右された。
したがって、明後日にはできるといっても、期日に間に合わず、転じて約束の期日が当てにならないことを、云うようになった。


先日、ニュースの森の天気予報のなかで「最近の天気予報は、紺屋の明後日みたいです。」旨の発言をした。明後日には晴れる、明後日には晴れると毎日のように云っても、結果、予報が外れてなかなか晴れなかったからだ。

それはそれとして、放送後、「紺屋(こんや)は(こうや)と読む方がいいのではないか」との識者から指摘をいただいた。もちろん私も両方の読み方を知っていたが、紺屋そのものが現代では死語に近いし、分かりやすい表現を選んだ方がいいと思って(こんや)と云った。


そこで、広辞苑など手許の辞書を引くと、いずれも「(こんや)転じて(こうや)となった」とある。
なんのことはない。どちらでもいいし、むしろ(こんや)と読むほうが元祖であった。


ところで問題は識者の方が、なぜどうでもいいことを(私にはそう思える)あえて指摘されたのか?

ひとつは「こんやのあさって」だと「今夜の明後日」と間違う可能性があるのではとの老婆心。しかしこれは、そもそも言葉の成り立ち過程で「紺屋=今夜」という、しゃれっ気があったのではないだろうか。となると余計、紺屋はこんやと読んだ方がいいことになる。

もうひとつ、人というのは自分の知識をひけらかしたくなる所があって、とくにその知識がマニアックであればあるほど云いたくなってしまう。
いやこれは指摘された識者の方がそうだというのではなく、私がこういう文章を書いていること自体がそういうことなのだと思う。


何年か経ってまた予報が外れたら、今度は「(こうや)の明後日です」と云ってみようか。その時は「(こうや)ではなく(こんや)が正しい」との指摘がきそうな気がする。
フランス人とステテコ
2003.8.15
高橋 和也 (『気象人』編集長)
 もともとヨーロッパ中北部は、真夏日がそう何日も続かない気候である。しかも乾燥していて朝晩はグンと気温が下がり、日本のようにフトンで熱と湿気にのたうち回る必要はない。昼間の暑さが一過性であるなら、一種のアクシデントとして、それこそ涼しい顔でやり過ごすことができるのだ。

 しかし今夏の欧州熱波は、そんな甘いものではなかった。パリで40℃に達するなど、記録的な暑さが1週間以上も続いたのである。エアコンよりも、暖房に力を入れている土地柄だ。石造りの密集した建物が多いので、おそらく風通しが悪いだろう。部屋の中でじっとしていられずに、噴水や川など水のある所に救いを求めるのはうなずける話だ。しかしロンドンのテムズ川に人が次々飛び込む画像を見た際は、一時の道頓堀川と似ていると思わずにはいられなかった(動機が違うにせよ)。「もう我慢ならん!」となれば、人は何でもするもんだなあ、と納得。

 が、やはり深刻なことも多い。フランスでは、熱波による死者が3000人を上回るという報告もあった。体力の弱い老人を中心に犠牲になっていると思われるが、暑さから彼等を救う方法はないのだろうか。ドイツの知人から聞いた話だが、北国では夏用の薄手下着を身に付ける習慣がないそうだ(というか売っていない)。その点、日本では昔から、着る物に対して涼しさを求める工夫が施されている。例えば親父さんのステテコ。もうすでに若者向けにオシャレなステテコも開発されているそうだが、これをフランスで売り出せば暑さに喘ぐ人たちの救いになるかもしれない。
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