「紺屋の明後日」ということわざがある。
「紺屋」というのは染め物屋さんのことで、その昔、染め物は乾かしたりとかで天気に左右された。
したがって、明後日にはできるといっても、期日に間に合わず、転じて約束の期日が当てにならないことを、云うようになった。
先日、ニュースの森の天気予報のなかで「最近の天気予報は、紺屋の明後日みたいです。」旨の発言をした。明後日には晴れる、明後日には晴れると毎日のように云っても、結果、予報が外れてなかなか晴れなかったからだ。
それはそれとして、放送後、「紺屋(こんや)は(こうや)と読む方がいいのではないか」との識者から指摘をいただいた。もちろん私も両方の読み方を知っていたが、紺屋そのものが現代では死語に近いし、分かりやすい表現を選んだ方がいいと思って(こんや)と云った。
そこで、広辞苑など手許の辞書を引くと、いずれも「(こんや)転じて(こうや)となった」とある。
なんのことはない。どちらでもいいし、むしろ(こんや)と読むほうが元祖であった。
ところで問題は識者の方が、なぜどうでもいいことを(私にはそう思える)あえて指摘されたのか?
ひとつは「こんやのあさって」だと「今夜の明後日」と間違う可能性があるのではとの老婆心。しかしこれは、そもそも言葉の成り立ち過程で「紺屋=今夜」という、しゃれっ気があったのではないだろうか。となると余計、紺屋はこんやと読んだ方がいいことになる。
もうひとつ、人というのは自分の知識をひけらかしたくなる所があって、とくにその知識がマニアックであればあるほど云いたくなってしまう。
いやこれは指摘された識者の方がそうだというのではなく、私がこういう文章を書いていること自体がそういうことなのだと思う。
何年か経ってまた予報が外れたら、今度は「(こうや)の明後日です」と云ってみようか。その時は「(こうや)ではなく(こんや)が正しい」との指摘がきそうな気がする。