コラム「気象の小窓」はこちら

<< 最初 < 前 1 2 3 4 5 次 > 最新 6 >>
4. 私の就職活動
 私が、帝都育英学院工業高等学校(現育英高専)電気科を卒業した昭和31年頃は、大変な就職難であった。
 当時、学校から紹介される就職会社受験のほとんどが中小企業で、景気をよく見せかけるための求人募集が多かったようで、会社にこねのない人の就職は大変難しかった。
 クラスの中でも、父親の会社に就職した人が多く、殊に、教科が電気であったため、親が東京電力に勤めていた人などの就職は比較的有利で、こねのない人の就職は無比であった。
 私の場合、親父の会社(昭和飛行機)の重役さんのこねで、西武鉄道の受験を試みたが、見事不採用であった。しかし、これには色々と訳があったことをあとから知らされた。
 当時の西武鉄道を支配していたのは、堤義明元社長の父親、あの堤康次郎衆議院議長であった。重役の顔を立て、試験は受けさせてくれたもの、採用者のほとんどは西武鉄道職員の息子や、所沢以北(埼玉県)で西武沿線の農家の次男坊などであった。
 西武鉄道は、都会の下肥(人糞)を川越の農家に運ぶための旧西武農業鉄道であった。
しかし、時代の流れや近代生活の煽りで化学肥料に取って代わり、衛生面からも下肥の使用が出来なくなってしまった。
 当時、私の通学は、西武新宿線「久米川駅ー下井草駅」間であった。
 下井草駅の一つ手前の井荻駅には引き込み線があり、そこには大きなコンクリートで出来た下肥溜が残されていた。
 昭和30年代初期には、公団住宅の建設ブームが始まり、その周りの土地開発も盛んになって、郊外の森や林がどんどん宅地に変っていった時代でもあった。
 新宿から本川越までの西武新宿線も、運賃の高い長距離利用客をより多く輸送するには、それなりの人口がなければならない。郊外の宅地開発が急務であったのであろう。
 従って、農家の持っている山林や広い田畑を西武鉄道が買い上げ、宅地分譲を行い、お通勤客を都会に輸送する狙いがあったようだ。
 それが証拠に、それまで昔から一番の繁華街であった「所沢駅」周辺より、新しく開発された「新所沢駅」周辺が一大繁華街となった。既存駅の周辺より新設された駅周辺の発展は著しかった。
5. 就職内定
 私は、父親の勤務先である昭和飛行機の紹介で、米軍立川飛行場(現昭和記念公園)内での米軍ジェット機の電気擬装技術者として、東京都職員の身分で就職が内定した。初任給は、なんと1万4千円と超高級であった。当時、大学卒業の初任給が8千円位であり、「もりそば」「かけそば」が15円、ラーメンが30円位であったことを記憶している。
 しかし、同時期に、中央気象台(現気象庁)に勤める伯父から気象台の外郭団体の財団法人気象協会(現日本気象協会)で数人募集しているが紹介してやるがという話が舞い込んだ。そして応募、就職が内定した。2カ所が内定してしまい、迷ってしまうことになる。
 当時、立川といえば米軍人の田舎町、方や気象協会があるのは都会の真ん中大手町、これからは都会でなければ、という気持ちが強く働き、気象協会を選ぶことにした。
 ちなみに、気象協会の初任給は6千5百円打ち切りであった。残業はしても無給で、これ以上びた一文くれないのである。
6. 初出勤
 昭和31年度採用の新人は4人で、あと数人が気象台から移籍してきた。4月1日が日曜日だったため、4月2日が初出勤日であった。服装は高校時代と同じ詰め襟の学生服のままである。
 その朝、母親がお赤飯を炊いて弁当に詰めてくれた。弁当を抱えての初出勤。各方面への紹介挨拶の後、私と高嶋君は、東京管区気象台技術課に配属された。試用期間ということで、2ヶ月間はアルバイトの身分で仕事をすることになった。
 配属された、東京管区気象台の技術課観測係、およびレーダー係の事務所は、竹平町(竹橋会館)のすぐ左側にそびえ立つ時計塔の(関東大震災の象徴としてよく写真などにでてくる)2階のフロアーをベニヤ板で仕切っただけの粗末な狭い部屋であった。
<< 最初 < 前 1 2 3 4 5 次 > 最新 6 >>