私が、帝都育英学院工業高等学校(現育英高専)電気科を卒業した昭和31年頃は、大変な就職難であった。
当時、学校から紹介される就職会社受験のほとんどが中小企業で、景気をよく見せかけるための求人募集が多かったようで、会社にこねのない人の就職は大変難しかった。
クラスの中でも、父親の会社に就職した人が多く、殊に、教科が電気であったため、親が東京電力に勤めていた人などの就職は比較的有利で、こねのない人の就職は無比であった。
私の場合、親父の会社(昭和飛行機)の重役さんのこねで、西武鉄道の受験を試みたが、見事不採用であった。しかし、これには色々と訳があったことをあとから知らされた。
当時の西武鉄道を支配していたのは、堤義明元社長の父親、あの堤康次郎衆議院議長であった。重役の顔を立て、試験は受けさせてくれたもの、採用者のほとんどは西武鉄道職員の息子や、所沢以北(埼玉県)で西武沿線の農家の次男坊などであった。
西武鉄道は、都会の下肥(人糞)を川越の農家に運ぶための旧西武農業鉄道であった。
しかし、時代の流れや近代生活の煽りで化学肥料に取って代わり、衛生面からも下肥の使用が出来なくなってしまった。
当時、私の通学は、西武新宿線「久米川駅ー下井草駅」間であった。
下井草駅の一つ手前の井荻駅には引き込み線があり、そこには大きなコンクリートで出来た下肥溜が残されていた。
昭和30年代初期には、公団住宅の建設ブームが始まり、その周りの土地開発も盛んになって、郊外の森や林がどんどん宅地に変っていった時代でもあった。
新宿から本川越までの西武新宿線も、運賃の高い長距離利用客をより多く輸送するには、それなりの人口がなければならない。郊外の宅地開発が急務であったのであろう。
従って、農家の持っている山林や広い田畑を西武鉄道が買い上げ、宅地分譲を行い、お通勤客を都会に輸送する狙いがあったようだ。
それが証拠に、それまで昔から一番の繁華街であった「所沢駅」周辺より、新しく開発された「新所沢駅」周辺が一大繁華街となった。既存駅の周辺より新設された駅周辺の発展は著しかった。