コラム「気象の小窓」はこちら

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10-4. 当時の気象協会の主な仕事4
(11) 日本短波放送に対する気象通報原稿および気象解説の提供
 いつ頃から始まったかは定かでないが、前日の午後9時の上層データ、当日朝3時の気象通報データ(NHK第2ラジオの気象通報と同等)の提供、天気概況などの通報を行っていた。
 当時は電話FAXなどはない。すべて電話による音声の通報である。朝4時頃、仮眠から起きて作業に当たる。
 気象通報用のデータは、テレタイプの気象電報から作成される。予報官が解析する朝3時の天気図を基に天気概況(低気圧や高気圧、前線の位置等)を作成して電話で概況を送る。時間的にぎりぎりな作業で、電話で送信していると、相手の局のモニターから寸前の送った原稿を放送しているのが聞こえてくるのである。朝5時30分頃の通報作業はまさしく戦場であった。
 昭和38年9月22日朝、この放送に事故が起きてしまった。夜勤の仮眠に入る前、必ず目覚まし時計をセットする。日本短波放送の担当者N・Y氏がセットしたが鳴ったとたんセットを解除してしまい、誰も気づかずそのまま、また寝てしまった。
 当時、協会の現業室は気象庁ビルの守衛室の上2階、気象庁の予報現業室が3階、我々の寝室は中庭にあった倉庫の2階にあった。
 日本短波放送から電話がじゃんじゃんかかって来たと思われたが、現業室から離れたところでの仮眠であり、目覚ましを止めてしまったため、朝の仕事はすべてすっ飛んでしまった。気象通報の時間は、音楽だけが流れたそうだ。
 後に、気象協会では懲戒委員会が開かれた。その結果、そのときの夜勤者全員「けん責」処分となり、始末書の提出となった。当然、私もけん責、減俸の処分を受けてしまった。

□当時の思い出
 電話の天気予報(当時は局番なしの222番、東京地区のみのサービス、現在の177番)の録音要員、当時は大手町電話局に出向き夜勤であった。
 気象庁で資料用に作成して各所に配布していた天気図は、地図が青、等圧線が墨の2色石版刷りの極東地上天気図であったが、昭和33年からはA3判のカラーオフセット印刷によるアジア太平洋地上天気図(09時・21時)、アジア太平洋高層天気図(850mb・700mb)、北半球高層天気図(500mb)の発行となった。
 当初、気象庁予報部予報課で雇ったアルバイトの女子トレーサー6~7名で1日5枚の印刷用天気図原図のトレースを行っていた。その作業を協会が行うことになった。そこで私がその責任者として予報部の作業室で作業することになった。
 アジア太平洋地上天気図1枚のトレース原図作成には、およそ7~8時間がかかる。アジア太平洋高層天気図は、約4時間。北半球高層天気図は8時間から10時間の時間が必要である。出来上がった原図は、予報課資料係の係員のチェックを受け、修正が行われてから図書課印刷係で本印刷される。
 お正月明けやゴールデンウイーク明けには天気図が溜まってしまい大変であった。私も責任者として、2年ぐらい担当したが、非常に細かい作業で目を悪くしてしまい。
 そして雑誌「気象」の編集。解説予報課では気象電報の整理、天気図のプロット、解析などの作業でいろいろな仕事の積み重ねで、経験を積まなければならなかった。
 創立当時の理事に、台風の進路予想の権威で早稲田大学の講師でもあった、西村傳三博士がいた。私は、その先生「雨の予想は、低気圧でしてはならない。雨は高気圧でしなさい」と指導された。確かに、北高型、関東の特有の北東気流型などは、高気圧の動き、その位置などに注目していないとはずしてしまうことがある。

◆スタジオを飛び出した天気予報「950お天気情報」
 昭和46年、TBSラジオ、午後5時からの「ダイヤモンドハイウエイ」という番組が誕生した。日本で初めてスタジオを飛び出し、TBS950(現954)ミニFMカーからタウン情報も含めて天気予報を「950お天気情報」として放送も行った。
 最初の一声は、井の頭公園からであった。高尾山頂上、浅草駒形どじょう、あちらこちらの歩道橋上、平塚の七夕会場など、数々の場所から放送を行った。
 この番組は、音楽と情報を主とした情報番組で、空からはヘリコプターの交通情報、TBS950女性キャスタードライバーによるタウン情報、私のお天気情報等で構成されていた。
 番組では、「ファンの集い」も行われた。福岡出身の小桜ディレクターが音楽のお客様として一緒に出演してくれたのが、同じ福岡出身で、まだあまり知られていなかった、南こうせつの「かぐや姫」であった。
 この番組は、タイトルが示すように、スポンサーが三菱石油であったが、思わぬ出来事が番組を襲った。
 昭和47年のオイルショックである。スポンサーは直ちに降板、番組名も「ミュージックハイウエイ」に変わってしまったが、スポンサーはなし、スポットコマーシャルで穴埋めをした。
 やがて番組は終了を迎え、当時人気弁護士、円山雅也による二代目の「東京ダイヤル」が始まった。
11. 落語天気図の誕生
 民間放送では、スポンサーの意向に添った番組がほとんどで、ニュース、交通情報、天気予報などの生放送以外は、録音によるものが多かった。
 このような番組製作を打開すべく、昭和40年ころ、TBSラジオでは、午後1時から5時までの4時間に及ぶ大型ワイド「オーナー」と言う生放送番組を誕生させた。
 いまではあまり珍しくはないが、4時間におよぶ生放送は画期的で、4時間ぶっ通しで司会に担当したのは、月曜日、火曜日が、バンド指揮者の小島正夫さん。水曜日、木曜日が音楽家の芥川也寸志さん。金曜日、土曜日はフリー司会者の三国一朗さんの3人であった。
 この番組は、色々なコーナーで構成されていたが、スポンサーに左右されないよう、大部分がスポットコマーシャルであった。最後のコーナーには、いまでも継続中の長寿番組「こども電話相談室」があった(編集部註 2008年10月に「全国こども電話相談室・リアル!」にリニューアル)。ちなみに、この番組の一部は一般に公開された。
 この番組の中に「落語天気図」と言うコーナーが出来た。天気予報に落語のお笑いを入れて構成するものである
 TBSスタジオにいる故三遊亭小円遊(当時二つ目の金遊)さんと気象協会のスタジオの職員とのやりとりで、天気予報を放送するものである。
 私が担当したとき、噺家のプロを相手に、こちらが小咄をしてしまい、プロが素人にやられていると言うことで、逆に金遊さんの人気が高まった。
 その後、金遊さんは、きざな仕草と会話で人気は益々高まり、日本テレビの「笑点」で活躍した。やがて真打ちに昇進、三遊亭小円遊として人気を不動の物にした。
 しかし、昭和57年の冬、東北地方を巡業中血を吐いて倒れ、帰らぬ人になってしまった。この訃報を聞いたのは、私が長野支部長時代であった。
 ちなみに、師匠は、三遊亭円遊、弟子は賞遊、金遊、一遊、千遊、万遊で、師匠弟子を合わせると、なんと「賞金一千万円」という粋な師匠であった。

 そのほか、TBSラジオの「山の天気」では、気象電報用のテレタイプ前までマイクロホンを延長し、テレタイプの雑音をバックに放送も行った。当時の担当TBSアナはあのダンディーな、通称「エノサン」でお馴染みの榎本勝起さんでした。

 確か昭和45年前後と記憶するが、当時アイデア紳士で有名であった片山竜二さんが担当する「スカイパトロール」という朝7時からの帯番組がスタートした。
 それまで「朝のファンファーレ」といサラリーマン向けのニュース中心の番組から、モータリゼーションに合わせた、交通情報が主になり、ヘリコプターによる空からの交通情報、警視庁からの主力道路の交通情報、しかし、今のような交通情報システムはなく、交番のお巡りさんが道路を見わたし、混んでいそうな距離を警視庁に電話連絡して来るものを、放送に使用していた。
 この番組が始まる前、片山さんの発案で、マイクと無線機を車に積んだミニFMカー「TBS950」(現TBS954)が誕生した。そのミニFMカーに乗車して朝の街を巡り、そのときの交通情報を伝える「キャスタードライバー」も誕生した。
 現在TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」に、永六輔さん、遠藤泰子さん担当する「どこか遠くへ」というコーナーがあるが、毎月の詩を担当している崎南海子さんは、このキャスタードライバーの第一期生であった。

 解説予報では、いろいろなことを行ってきたため、森田イズムが強すぎると言うことで、私は解説予報を追われる結果となってしまった。
 次に配属されたのは、赤字続きの広報部販売課で、気象関係の図書や気象観測機材を扱う部署であった。
 当時は、気象関係の図書は特殊なため、一般の本屋さんには出回らず、通信販売が主で、現金書留や振替で注文を頂いた図書の発送のため、職員は毎日大量の小包作りで大変であった。殊に、天気図用紙は、くるくると丸めて梱包しなければならず、送料も注文主から頂かねばならない。
 これは何とかしなくちゃと言うことで、協会の書籍を流通に乗せることに努力することにした。そして部下との協力で全国の書店の営業を開始し、書籍大手取次店の東販、日販栗田図書販売などを利用することにより、協会の書籍がどこにいても定価でお客様が購入できるようになる。我が部署の省力化が出来て気象の図書販売数も急激に多くなった。
 やがて実績が認められ、日販の流通倉庫の使用が可能となり、月2回くらいの割合で天気図用紙を始め、その他の図書を納入することが出来るようになった。
 天気図用紙はベストセラーになったことがあると、取次店から言われたことがあった。
 私がこの部署を離れ、福岡本部に転勤になった後、本屋への営業が疎かになり、残念ながら流通倉庫の使用が駄目になってしまったようだ。
12-1. 昔の予報官1
 私が、予報関係の仕事に直接携わったのは、昭和30年代はじめからで、この際に接した、いろいろ変わった予報官の話である。
 戦時中は、気象管制が行われ、気象データは公表されない。戦後は気象データの公表がされるようになったが、天気予報に一番必要な日本の西に当たる中国のデータが解禁されたのが昭和31年6月1日のことである。それまでの天気図には、一番肝心な中国大陸のデータは全くなく白紙で、シベリア(ソ連)、朝鮮半島、台湾、香港のデータしか記入されていない。
 日本国内と朝鮮半島のデータから中国大陸の高気圧や低気圧、前線などを推測して等圧線の解析をしなければならなかった。西から変わる天気を予報する九州の気象台の予報官は大変苦労したことだろう。
 昭和31年6月1日以降の天気図には中国大陸のデータが記入されるようになり、天気予報もし易くなったが、今のように気象衛星の写真や計算機のデータもない時代の予報官は、基礎となる気象学の法則や経験と感が頼りであった。
 中国から気象電報が可能になって、天気図の記入方法が変わった。天気図の気象データの記入は、通報課の若い職員一人で担当していたが、中国のデータまで記入していると、予報官の解析時間が無くなってしまう。そこでアジア太平洋天気図は東経130度で縦に切られ、二人で記入する事になった。

 気象庁予報部では、主任予報官を座長にして、毎日午後2時頃から予報検討会が行われる。当初は、まだコンピュータの無い時代である。地上天気図、高層天気図、上層断熱曲線などによる、実況のデータと経験による予報であった。
 各担当者が意見を出し合い、主任予報官がこれをまとめて、各気象台に指示報が出される。それにより各気象台の予報官は地元管轄の予報を作成する。
 昭和33年頃、日本にコンピュータが導入されたが、気象庁が初めてで、アメリカから船便で横浜に荷揚げされ、夜中、大型トレーラーで運ばれてきた。真空管のIBM制であった。まだ、エアコンが普及していない頃、このコンピュータの部屋だけは、がんがん冷房が利いていた。
 やがてコンピュータによる上層の解析予想などが導入され、予報技術は格段と向上していくのである。
 昔の予報官の多くは、技術官養成所(現気象大学)出身者であったが、人それぞれ、個性がよく現れていた。
 予報をよく当てる予報官、自分の出す予報にあまり自信の無い予報官、一生懸命考えて出す予報がすぐ外れてしまう予報官など、様々な人が多かった。その中でも予報官仲間から名人と呼ばれた予報官もいた。

□名人と言われた予報官□
 がっちりとした体格で、ごま塩の髪は、いつもきちんと七三に分け、非常に穏やかな感じの良い予報官であった。よく予報を当てるので、同じ予報官仲間からも「名人、名人」と呼ばれていた。
 予報用には極東天気図が使用される。その天気図解析に使用する鉛筆は、肥後の守(折り畳み式の小刀)で細長く削り、専用の筆箱にはこの鉛筆がいつも丁寧に並べられていた。
 各地の気象データのプロットが出来上った天気図を、腕組みをしてしばらくの間じっくりと眺める。それは、各地のデータをしっかり読むためである。今この地点では、どんな雲が出ているのか、空気は乾いているか、湿っているか、気圧の変化がどうであったか、3時間前から天気はどう変化したか、国際式の天気図記号から、このようなことを読みとる。
 このようなことを頭に入れ、専用の透写台に3時間前の天気図を下敷きにして、おもむろに低気圧や高気圧の位置を定め、等圧線や前線を描き出す。
 先ずは、薄い線で等圧線などの下書きを行う。そして下書きの等圧線を消しながらスムースな等圧線を描き、色鉛筆で前線を引き、雨の降っている地点を青鉛筆で、雪の降っている場所を緑色で塗り天気図を完成させる。そして高気圧や低気圧、前線などの動きを予想して予報を考える。
 頭の中で予報が出来上がると、おもむろに屋上へ出て雲の流れなどを確認し、予報の確認をしてから予報を発表するという念の入れようである。
 当時の予報現業室は、現在の竹橋会館の奥に位置した鉄筋2階建で、爆撃にも耐えられるように設計された頑丈なビルであった。
 この館屋の屋上に行くには、廊下の梯子を上らねばならない。出口はマンホールのような形で狭く、人が一人通るがやっとという大変な作業である。ここまでのことを行う予報官は「名人」のほかにいなかった。
 当時の予報的中率が70%前後だった。現在のようにコンピュータ時代ならいざ知らず、天気図と経験から考える出される名人の予報的中率は、80%位ではなかったろうか。

□予報にあまり自信の無い予報官□
 毎朝5時30分頃、その日の最初の予報が発表される。早朝5時過ぎに、予報現業室に天気図を見に行き、お早うございますと言うと、予報官から「今日の予報はどうしましょうかね」と逆に質問を受けてしまうこともしばしばだった。
 今日の最高気温や最大風速、最小湿度、明日の最低気温などの量的予報は、8時頃にならないと発表されない。
 当時、各放送局の天気予報の時間は、朝7時頃と夕方7時頃に集中していた。
 私の担当していたラジオ東京(東京放送)の気象現況は、朝6時55分頃「歌のない歌謡曲」から始まる。したがって、それまでの間に、担当予報官から今日の最高気温を聞き出さなければならない。
 通常、前日午後9時の上層データ(エマグラム)の850mbの温度を地上気温に換算し、予想される天気によってプラス・マイナスさせて最高気温を割り出す方法であった。
 早朝この予報官に最高気温を尋ねると、「今日は、たぶん平年並みだろうな」と言って壁に貼ってある最高気温の平年値のグラフを指さし、「今日の最高気温は○○度だな」であった。

□ころころ予報を変える予報官□
 天気が急変したりすると、スポット予報と言って予報を変更することがある。その回数は非常に多かった。
 等圧線とは、同じ気圧の所を結んだ線で、周りのデータを按分しながら描き出すものである。空気は流体なので、等圧線は、あまりくねくね曲がるものではないはずだが、この予報官の描く等圧線は、実にくねくね曲がっていてスムースさがあまりない。
 また、少しの気温差があると、すぐ前線を描いてしまう。したがって低気圧の周辺から何本もの前線が描かれる。
 確かに前線の前後は気温の差や風向きの違いがよく現れるものである。気圧のデータはすべて海面更正(海抜0m)されているが、気温やその他のデータは標高差のある現地のデータである。海抜の違いにも注目しなければならないはずだ。
 当時から、何本もの前線を描いた低気圧を自分ではタコ足型気圧配置と自負し、気象論文にも掲載されたと豪語していた。
 朝5時30分頃の天気予報発表に使用される天気図は、午前3時の実況天気図である。
 その時点でよく晴れていると「今日は晴れ」となる。しかし、日が昇るにつれて急に雲が広がってしまうことがよくある。そうなるとスポット予報が出され、今日の予報は「曇り時々晴れ」と訂正される。しかし、皮肉にも訂正した予報が元の天気現象に戻ってしまうことも多かった。

□天気が急変しても絶対予報を変えない頑固な予報官□
 俺が自信を持って出した予報だ。天気が勝手に変わってしまっただけだ。予報が外れてしまっただけだ。と言って絶対スポット予報を出さなかった予報官である。
 茨城県から常磐線での通勤で、家では農業も営み、休みの日には畑仕事もしていたので顔は真っ黒、細面で長身、茨城弁丸出しの予報官であった。
 当時、気象協会では「速報天気図」を発行していた。9時前に印刷され、丸の内界隈の船舶会社や商社などに配達され、遠方ユーザーには郵送する天気図である。
 この天気図の左の欄には、天気予報や量的予報を記入されている。
 あるとき、当日の予想最高気温を記入する時点で、実際の気温はすでに予想最高気温を超えてしまっていた。
 その予想最高気温の訂正のお願いをしたところ、この予報官は、例の茨城弁で「外れてしまったんだから、しょうがなかっぺ」といって絶対訂正をしなかった。
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