私が、予報関係の仕事に直接携わったのは、昭和30年代はじめからで、この際に接した、いろいろ変わった予報官の話である。
戦時中は、気象管制が行われ、気象データは公表されない。戦後は気象データの公表がされるようになったが、天気予報に一番必要な日本の西に当たる中国のデータが解禁されたのが昭和31年6月1日のことである。それまでの天気図には、一番肝心な中国大陸のデータは全くなく白紙で、シベリア(ソ連)、朝鮮半島、台湾、香港のデータしか記入されていない。
日本国内と朝鮮半島のデータから中国大陸の高気圧や低気圧、前線などを推測して等圧線の解析をしなければならなかった。西から変わる天気を予報する九州の気象台の予報官は大変苦労したことだろう。
昭和31年6月1日以降の天気図には中国大陸のデータが記入されるようになり、天気予報もし易くなったが、今のように気象衛星の写真や計算機のデータもない時代の予報官は、基礎となる気象学の法則や経験と感が頼りであった。
中国から気象電報が可能になって、天気図の記入方法が変わった。天気図の気象データの記入は、通報課の若い職員一人で担当していたが、中国のデータまで記入していると、予報官の解析時間が無くなってしまう。そこでアジア太平洋天気図は東経130度で縦に切られ、二人で記入する事になった。
気象庁予報部では、主任予報官を座長にして、毎日午後2時頃から予報検討会が行われる。当初は、まだコンピュータの無い時代である。地上天気図、高層天気図、上層断熱曲線などによる、実況のデータと経験による予報であった。
各担当者が意見を出し合い、主任予報官がこれをまとめて、各気象台に指示報が出される。それにより各気象台の予報官は地元管轄の予報を作成する。
昭和33年頃、日本にコンピュータが導入されたが、気象庁が初めてで、アメリカから船便で横浜に荷揚げされ、夜中、大型トレーラーで運ばれてきた。真空管のIBM制であった。まだ、エアコンが普及していない頃、このコンピュータの部屋だけは、がんがん冷房が利いていた。
やがてコンピュータによる上層の解析予想などが導入され、予報技術は格段と向上していくのである。
昔の予報官の多くは、技術官養成所(現気象大学)出身者であったが、人それぞれ、個性がよく現れていた。
予報をよく当てる予報官、自分の出す予報にあまり自信の無い予報官、一生懸命考えて出す予報がすぐ外れてしまう予報官など、様々な人が多かった。その中でも予報官仲間から名人と呼ばれた予報官もいた。
□名人と言われた予報官□
がっちりとした体格で、ごま塩の髪は、いつもきちんと七三に分け、非常に穏やかな感じの良い予報官であった。よく予報を当てるので、同じ予報官仲間からも「名人、名人」と呼ばれていた。
予報用には極東天気図が使用される。その天気図解析に使用する鉛筆は、肥後の守(折り畳み式の小刀)で細長く削り、専用の筆箱にはこの鉛筆がいつも丁寧に並べられていた。
各地の気象データのプロットが出来上った天気図を、腕組みをしてしばらくの間じっくりと眺める。それは、各地のデータをしっかり読むためである。今この地点では、どんな雲が出ているのか、空気は乾いているか、湿っているか、気圧の変化がどうであったか、3時間前から天気はどう変化したか、国際式の天気図記号から、このようなことを読みとる。
このようなことを頭に入れ、専用の透写台に3時間前の天気図を下敷きにして、おもむろに低気圧や高気圧の位置を定め、等圧線や前線を描き出す。
先ずは、薄い線で等圧線などの下書きを行う。そして下書きの等圧線を消しながらスムースな等圧線を描き、色鉛筆で前線を引き、雨の降っている地点を青鉛筆で、雪の降っている場所を緑色で塗り天気図を完成させる。そして高気圧や低気圧、前線などの動きを予想して予報を考える。
頭の中で予報が出来上がると、おもむろに屋上へ出て雲の流れなどを確認し、予報の確認をしてから予報を発表するという念の入れようである。
当時の予報現業室は、現在の竹橋会館の奥に位置した鉄筋2階建で、爆撃にも耐えられるように設計された頑丈なビルであった。
この館屋の屋上に行くには、廊下の梯子を上らねばならない。出口はマンホールのような形で狭く、人が一人通るがやっとという大変な作業である。ここまでのことを行う予報官は「名人」のほかにいなかった。
当時の予報的中率が70%前後だった。現在のようにコンピュータ時代ならいざ知らず、天気図と経験から考える出される名人の予報的中率は、80%位ではなかったろうか。
□予報にあまり自信の無い予報官□
毎朝5時30分頃、その日の最初の予報が発表される。早朝5時過ぎに、予報現業室に天気図を見に行き、お早うございますと言うと、予報官から「今日の予報はどうしましょうかね」と逆に質問を受けてしまうこともしばしばだった。
今日の最高気温や最大風速、最小湿度、明日の最低気温などの量的予報は、8時頃にならないと発表されない。
当時、各放送局の天気予報の時間は、朝7時頃と夕方7時頃に集中していた。
私の担当していたラジオ東京(東京放送)の気象現況は、朝6時55分頃「歌のない歌謡曲」から始まる。したがって、それまでの間に、担当予報官から今日の最高気温を聞き出さなければならない。
通常、前日午後9時の上層データ(エマグラム)の850mbの温度を地上気温に換算し、予想される天気によってプラス・マイナスさせて最高気温を割り出す方法であった。
早朝この予報官に最高気温を尋ねると、「今日は、たぶん平年並みだろうな」と言って壁に貼ってある最高気温の平年値のグラフを指さし、「今日の最高気温は○○度だな」であった。
□ころころ予報を変える予報官□
天気が急変したりすると、スポット予報と言って予報を変更することがある。その回数は非常に多かった。
等圧線とは、同じ気圧の所を結んだ線で、周りのデータを按分しながら描き出すものである。空気は流体なので、等圧線は、あまりくねくね曲がるものではないはずだが、この予報官の描く等圧線は、実にくねくね曲がっていてスムースさがあまりない。
また、少しの気温差があると、すぐ前線を描いてしまう。したがって低気圧の周辺から何本もの前線が描かれる。
確かに前線の前後は気温の差や風向きの違いがよく現れるものである。気圧のデータはすべて海面更正(海抜0m)されているが、気温やその他のデータは標高差のある現地のデータである。海抜の違いにも注目しなければならないはずだ。
当時から、何本もの前線を描いた低気圧を自分ではタコ足型気圧配置と自負し、気象論文にも掲載されたと豪語していた。
朝5時30分頃の天気予報発表に使用される天気図は、午前3時の実況天気図である。
その時点でよく晴れていると「今日は晴れ」となる。しかし、日が昇るにつれて急に雲が広がってしまうことがよくある。そうなるとスポット予報が出され、今日の予報は「曇り時々晴れ」と訂正される。しかし、皮肉にも訂正した予報が元の天気現象に戻ってしまうことも多かった。
□天気が急変しても絶対予報を変えない頑固な予報官□
俺が自信を持って出した予報だ。天気が勝手に変わってしまっただけだ。予報が外れてしまっただけだ。と言って絶対スポット予報を出さなかった予報官である。
茨城県から常磐線での通勤で、家では農業も営み、休みの日には畑仕事もしていたので顔は真っ黒、細面で長身、茨城弁丸出しの予報官であった。
当時、気象協会では「速報天気図」を発行していた。9時前に印刷され、丸の内界隈の船舶会社や商社などに配達され、遠方ユーザーには郵送する天気図である。
この天気図の左の欄には、天気予報や量的予報を記入されている。
あるとき、当日の予想最高気温を記入する時点で、実際の気温はすでに予想最高気温を超えてしまっていた。
その予想最高気温の訂正のお願いをしたところ、この予報官は、例の茨城弁で「外れてしまったんだから、しょうがなかっぺ」といって絶対訂正をしなかった。