(6)電話による天気予報サービス
昭和29年9月1日から、東京地方だけ電話による天気予報サービスが始まっていた。当時は、局番なしの222番(現177番)であった。ちなみに、時報サービスは223番(現117)であった。
天気予報サービスの録音は、気象協会の職員の担当で、大手町にある千代田電話局の5階の録音室で行われた。ここでは、時報と天気予報のサービスが行われているフロアーである。
月曜から土曜のお昼までの昼間は、中村さんという女性職員が担当し、午後5時から翌朝9時までと土曜日の午後と日曜日全日は男性職員が交代で担当した。
気象庁予報部に派遣されている協会職員から磁石式の直通電話(通称ガラ電)にて原稿を受け、下読みと原稿の長さを測り、テープの長さを決めてエンドレスのテープを作成して録音する。決められた発表時間にサービスを開始する。
ちなみに、このエンドレスの録音機や、黒くてまるで粗悪な紙のようなテープを作製していたのが東京通信工業で現在のソニーである。
東京で始まった222天気予報サービスが後に全国展開され、各地方気象台内に支部が開設されることになる。電話番号も222番から「天気になれなれ」の177番に統一されることになる。
この時の夜勤は、電話局の人と2名である。局の人の作業は時報サービスのメンテナンスが主であるが、時折時報のエンドレスアナウンステープ(只今から何時何分何秒をお知らせします)の絡み合いでサービスがストップしてしまう。警報が鳴るので、隣の予備機に切り替え、サービスを再開させるのである。
気象サービスは、切り替え時間が決められているが、天気の急変した場合には、スポット天気予報が発表され、臨時に録音し直してサービスを行わなければならない。また、台風や地震の発生、注意報、警報が発表された場合にも、すぐに録音し直し、手早く切り替えなければならない。たまに、切り替えを忘れてしまい、試聴者から古い予報を聞かされてしまった。料金を返せ等という抗議の電話も頂いたことがある。
電話局の職員との夜勤は、大変楽しみで、ウヰスキー(ニッカ角、当時300円)を鞄に入れての出勤である。
電話局の食堂で買った冷めた夕食のおかずを肴に、夜7時頃から酒盛りが始まる。
我々は4交代なので、4日おきの夜勤であったが、局の職員は大勢なので、毎回の顔ぶれが違う。中には大酒を食らう人、全然飲まない人、子供の遠足のように果物を沢山用意する人、クラリネットの練習をする人、H写真を持ってくる人、局内を遊び回って朝まで帰ってこない人、皆様ざまで、話題も豊富で大変楽しい夜勤であった。
(7) 気象台の見学案内
当時、小学生や中学生の気象台の見学が多かった。この案内の窓口を行うのが気象協会の仕事である。
現在のKKR竹橋会館入り口付近に、高さ20メートルくらいの時計塔(観測塔)があった。関東大震災にも耐え、発生時間に止まった時刻の時計塔写真は、当時の新聞や報告書などにも数多く載っている。
入り口の奥に水銀気圧計室があり、2階がベニヤで囲った事務室、3階から上は気象観測に必要な古めかしい観測機械類が展示されていた。そして屋上には、当時実際に観測で使用していた矢羽根式の風向計、3杯風速計、ロビンソン風速計(4杯)等が設置してあった。これらはいずれも風程型の風速計で、回転数の記録から風速を算出するものである。
また、ジョルダン日照計、これは直径10cm位のガラス玉で下の固定された溝に時刻を刻んだ記録紙を挟み、太陽が照ると照った時刻に焼けた記録が残る仕組みで、その長さを日照時間とするという、いたって原始的な測器である。
一方、カンベル日照計もあった。これは直径5~6cm、長さ15cm位の黒い円筒形で、真ん中辺に1mm程の穴が2つ開いている。円筒形の中に青写真の薬品処理された記録紙をセットする、朝になって太陽が昇ってくると、東側の穴から射し込んだ太陽の軌跡が焼き付けられる。太陽の南中後は、反対の西側の穴から入る軌跡が残るようになる。記録紙を強い光に当てると記録が消えてしまうので、記録紙の交換は夜間でないと行えない。
時計塔の南、皇居に面した敷地には、地上気象観測の露場があった。
当時の露場に設置してある観測機器は、すべて観測員の目視によるもので、現在のような隔測の出来る測器は全く無かった。
露場の中央に大型百葉箱(気象庁1号型)が設置され、その中には、電動ファンの付いた水銀温度計、右側が乾球温度計、左側は湿球温度計、そのほかゼンマイ式の自記温度計、自記湿度計、最高・最低温度計などがある。
観測当番者は、毎正時11分前に風速計の風程値を読みとり、温度計のファンのスイッチ入れ、湿球温度計のガーゼにスポイトで水を含ませる。
そして天気や雲などの観測を行なう。下層、中層、上層の3段階にある雲の種類、高さ、全雲量を観測野帳記入する。
また、降水があった場合には、雨量の観測も行う。現在のような転倒マスによる隔測ではなく、雨量マスによる観測である。正時1~2分前に乾球温度、湿球温度の観測、風程の観測、そして気圧計室に走り、正時に気圧を読みとる。これを毎時間繰り返す。
それに、Zタイム(グリニッジ)00時(日本時間午前9時)から3時間おきには視程観測も行う。これは地上気象観測に入る前に時計塔に駆け上がり、水平の視程を観測するもので、視程観測板というのがあり、目標となる建物や山などの距離が示されている。
観測が終了すると、観測データを整理し、気象電報(5桁づつの数字)を作成して、専用電話で通報課に送る。
そのほか何時雨が降り出したか、何時止んだか、雨の降り方強さなども常に監視していなければならない。当時の観測当番者は、かなりの重労働であった。
このような気象観測の説明や時計塔の案内窓口が仕事である。
見学者の案内は、これらの東京管区気象台技術課観測係の職員が行った。
変な話ではあるが、案内者に謝礼しなければならないので、協会では学童1人当たり5円のお金を徴収していた。今では考えられないことである。昭和39年2月、現在の気象庁ビルに移転してからは見学案内は中止となった。