コラム「気象の小窓」はこちら

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12-2. 昔の予報官2
□等圧線を一筆書きする予報官□
 大きなアジア太平洋天気図を担当する小柄な予報官。天気図の解析には、通常HBクラスの鉛筆が使用されていた。
 ところが、この予報官は、いつもシャープペンで細い等圧線を描いていた。ほとんど消しゴムは使わず、一筆書きのように、一気に等圧線を描いてしまう。
 天気図を描きあげるのは誰よりも一番早かったが、等圧線は薄く見づらく、あまり綺麗な天気図ではなかった。
 よく天気予報の問い合わせがあると「晴れ」「曇り」「雨」のどれかの一言でしか答えない。時々とか一時、後などは絶対いわなかった。
 ある日、突然禿頭病を患い、丸坊主になってしまった。ストレスから来たものなのかは不明である。

□長官と呼ばれた予報官□
 現在の自衛隊の前進である警察予備隊が防衛庁になり、防衛庁長官と同じ名前だったことから、仲間からは「長官、長官」と呼ばれていた。細面でいつもそっくり返った姿勢の予報官である。
 当時の予報官の勤務は当番制で、朝8時30分から午後5時までの昼間勤務を3日間続け、天気予報や注意報、警報、漁業気象などを担当する。そして4日目は夜勤となり、昼間の当番者と引継を行い、夕方5時から翌日の9時頃までの間、予報当番にあたる。
 夜勤当番の場合、日勤者の予報やデータそして天気図のチェックをしたり、夜9時の天気図を解析して明日の準備などに追われる。
 もう時効であるのでここに記すが、夜勤者同志でささやかな酒盛りが始まる。この予報官は、いつも深酒して寝るのが遅い。朝一番の天気予報を発表するが、朝5時30分ころであるが、起きてくるのがこの時間で、酒のにおいがぷんぷん。ろれつの回らないこともしばしばであった。
 つまり天気図を解析している時間がない。我々は天気図を転写して、放送局に送らねばならない。0時の天気図から推測して、朝3時の天気図を完成しなければ、テレビの天気予報の時間に間に合わなくなってしまうのである。
 この予報官の当番に当たった時には、皆大変な思いをした。 たまに早起きして天気図を解析し始めることもあったが、我々が天気図の転写が終るのを確認すると、解析した等圧線を消してしまう。そして再び解析するという大変意地悪な人であった。
 いつも威張っている感じであったが、茶目っ気たっぷりで、あまり憎めない人柄でもあった。当時は珍しかった国際結婚で、皆の前では威張った態度であったが、この奥さんにはめっぽう弱気で、いつも頭が上がらないようであった。仲間の予報官に聞いた話であるが、毎月の俸給日(給料日)には必ず奥さんが取りに来ていたという。

□和尚さんと呼ばれた予報官□
 この予報官は、仲間から和尚と呼ばれていた。背が高く、くぼんだ目には度の強い眼鏡をかけ、風貌からは和尚という印象はないが、我々のような新人を見つけると、和尚さんの云われを得々と説明してくれる、大変穏やかな予報官であった。
 週間予報や長期予報に使用される天気図は、半旬(5日)及び月の北半球平均天気図である。地上天気図では、日変化や地形の影響を受けるため、比較的変化の少ない高層データが用いられる。
 平均天気図は、リアルタイムで解析された等高線のデータを内挿して、緯度・経度10度ごとの高度の値を読みとる。つまり今でいうデジタル天気図を作成するのである。
 天気図を見て、データを内挿しながら読みとるのは大変な作業である。予報官がデータを読みとり、助手が集計用紙に記入する。5日(半旬)のデータが得られると集計され、5日間の平均値が求められる。そして、北半球半旬平均天気図が作られる。また、月ごとに集計され北半球月平均天気図が作成される。
 前半旬の平均天気図や前月の平均天気図と比較して、大気の流れを読みとり長期予報に使用される。
 毎日解析される天気図からデータの読みとりをそばで聞いていると、和尚さんがお経を上げているように聞こえることから、「和尚さん、和尚さん」と呼ばれるようになったと云うことである。

□東大卒のインテリ予報官□
 東大卒の予報官は、ほかにも数人いたが、私が予報に携わっていた頃、現場で予報当番を行っていたのが、この予報官である。
 比較的小柄で無口で予報官であったが、人当たりは非常に穏やかで、日本茶が大好物。茶渋の着いたコーヒーカップでよくお茶を飲んでいた。人とのつき合いは苦手で、孤独が好きだったようである。
 神田神保町すずらん通りの先にさくら通りがある。そこに小さな居酒屋があった。牛の煮込みと焼き鳥が売り物で、特に煮込みには、煮込み鍋の縁には半丁分の豆腐が入れてあり、味のしみこんだ豆腐に煮込みが盛ってあった。焼き鳥は小さめの串が3本乗っており、当時の金額で、いずれも一皿30円であった。飲み物もビール大瓶120円、我々給料の少ない時代であったため好んで足を運んだが、我々がのれんをくぐると奥のテーブルにはこの予報官の姿があった。挨拶をすると「オー」と言うだけで、店に用意してある新聞を眺めながらチビリチビリ冷や酒を飲んでいた。

□おむすびのような低気圧を解析する予報官□
 戦前の天気図の解析では、今のような半丸の温暖前線や三角の寒冷前線の記号はない。前線は不連続線と呼んで、一点波線で描いた。
 今では、ほとんど聞かれなくなった、房総不連続線や北陸不連続線なども描かれていた。
関東の天気予報をはずす原因である北東気流は、房総不連続線の仕業である。北東気流の場合は、三陸沖から冷たい湿った空気が関東に下層に流れ込み、その先頭が房総南部に達する。その上層に南から暖かい空気がはい上がり、房総不連続線を形成して冷たい小雨を降らすことが多い。東京の予報を大きくはずす要因となる。
 通常の天気図では、広範囲の解析なので細かいところまで目を配ることは大変であるが、関東地方のローカル天気図で細かなデータを記入して解析を行うとよく判る。
 東京を始め関東地方の風向が北東で、御前崎が東風、大島では西風になると、房総不連続線が形成され天気が崩れ冷たい雨となる。数百メートルの非常に低層からの雨なのでレーダに映らないことも多い。ちなみに中央高速で西に向かうと小仏トンネルまでは小雨でもトンネルを出ると晴れていて気温も高めのことが多い。
 一方、西高東低の冬型場合、それが強く、また寒気の流入が激しいときには、山雪型となり山の降雪が多くなり大雪となることはご存じであろう。しかし、冬型がゆるむと北陸不連続線が発生し、里雪型となり平地で大雪となる。それも湿った重たい雪である。新潟などの里雪は、早めに溶ける。気温より海水温ほ方が高いためである。
 前置きが長くなってしまったが、その当時の解析の方法を取っていた予報官がいた。まず低気圧の中心から解析をする。そしてその周りの等圧線を描いていく。それが丁度おむすびのように見える。通常、低気圧付近の前線と交わる等圧線は鋭角だが、この予報官は、等圧線を描き上げ、最後に前線を記入そるので、低気圧の中心付近の等圧線は丸みを帯びている。

□芸術的な天気図解析をした予報官□
 天気図の等圧線は、同じ気圧の所を結んだ線である。日本式で放送される気象通報の気圧の値は、正数で少数点以下は四捨五入されている。国際式の天気図では、小数点以下一位までが記入されている。
 この予報官は、等圧線を等間隔に近い解析をした。大気は流体で、その重さを表す気圧に無理があってはいけない。従って気圧重視の解析ではなく、くにゃくにゃ曲がった等圧線ではなく、流れるような綺麗な等圧線を描いた。実に芸術的な天気図であった。
 昼間担当の予報官は、3日間続けて天気図解析を行う当番制のため、昔の天気図を見ると、その特徴がよく現れている。


 ~完~ 
プロフィール
森田 進(もりた・すすむ)
(財)日本気象協会OB。昭和31年(1956)東京本部採用、以後中央本部参事、事業本部専任主幹などを経て平成10年(1998)退職。
気象協会草々期から気象業務自由化(1995)以降まで、気象事業の最前線に携わる。
ラジオ、テレビ等の解説や気象事業、気象広報など幅広く気象業務に精通。昭和30年代から50年代の気象庁内部事情にも詳しい。
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