勉強期間の2ヶ月が過ぎ、6月から身分は気象協会の臨時職員となった。新人職は、3ヶ月間の試用期間があり、それを経ないと正職員にはなれない。
私は、レーダー係に配属され、レーダー観測のお手伝いをすることになった。
軍事用に開発されたレーダーが気象用に製作されるようになった。昭和30年千代田区竹平町(現竹橋会館・丸紅)にあった地上64メートルの無線塔を54メートルに切断され足場が整備された。その頂上にパラボラアンテナが設置され、昭和30年頃、東京気象レーダーとして運用が開始された。尚、気象レーダーの運用開始は、昭和29年9月1日、大阪管区気象台に設置されたのが、初めてであった。
この気象レーダーは、半径300キロに点在する雨雲を観測する最新機器であった。それを運用するレーダー係長、係員のお手伝いをするのが私の仕事である。
気象レーダーは波長5.7cmのパルス電波を発射し、雨粒に当たって反射される電波を受信増幅し、円形のブラウン管上に映し出して、雨雲の分布状態を観測するものである。
ブラウン管上に映し出された雨雲は、白いほど強く、薄いものほど弱いもので、その差はdbで表される。
季節は夏の期間を迎え、レーダー画面には雷雲の点在が多くなった。
レーダーの観測は、定時と臨時があり、エコーが観測されるとパラボラアンテナを回転したまま、丸いブラウン管(PPIスコープ)の上に地図が印刷されたビニールを当てて、ダーモトグラフという黄色の鉛筆でエコーを写し取るのである。
そして、アンテナを上向きにさせながら、数カ所の強いエコーの高度を読みとる。また、エコーの強さをdbで記入してスケッチ図が完成する。そのスケッチ図は、予報官の手元に届けられる。
このレーダーを操作するのには、無線技師免許が必要である。私は、資格がないため、操作は出来ない。もっぱらその画面の写真撮影に当たった。
当時、手に触れたこともなかった最高級カメラ、キヤノンでの撮影である。ブラウン管のカーソルが真上にきたときにシャッターを押し、カーソルが一回転して再び真上にきたときにシャッターをはなすという約1分間で一画面を撮影する仕事であった。
しかし、夏は入道雲(積乱雲)の発達が顕著なため、撮影回数も多くなり、撮影済みのフイルムはすぐ溜まってしまうのである。
私の仕事は、レーダー画面の撮影だけではない。撮影したフィルムの現像、焼き付けフィルムの詰め替えなどの仕事も待っている。
当時のフィルムは、現在のような24枚撮り36枚撮りのようにパトローネ入りではない。丸い大きなブリキ缶に入った長い映画用のフィルムを適当に切ってキヤノン専用の真ちゅうで出来たマガジンに詰め替えなければならなかった。従って、毎回何枚撮れるかは判らないのである。
地上気象観測室の脇には、約一坪ほどの写真用の暗室があった。D74というフィルム用の現像液、D76という印画紙用の現像液、酢酸の入った定着液の作成は大変であった。 当時の暗室には冷房も暖房もない。夏場の作業は正に地獄であった。毎日が暑さとの戦いは勿論、現像液等はすぐ劣化してしまい、定着液の酢酸の臭は身体にまで染みついてしまうのである。
そのほか、月1回くらいのパラボラアンテナや発信器のメンテナンスのため、54mの鉄塔に上らなければならない。
パルスを発生するクライストロンという真空管は寿命大変短く、数ヶ月しか保たないため、この交換のため、臨時に鉄塔に上ることもしばしばであった。
最初の頃、鉄塔に昇る時は、必ず手足がふるえ、非常に怖かった。しかし、回数を重ねるうちに次第に慣れてきた。そして余裕がでてくると、鉄塔に上るのが楽しみになってきた。
当時、周りには高い建物は全くない。皇居の緑や筑波山、お茶の水にあるニコライ堂など54mの高所から眺めは最高であった。
翌年の昭和32年6月末でレーダー係での私の仕事は終了し、7月からは協会に戻ることになった。
ちなみに、私の後任者は、後に気象庁長官となる立平氏であった。立平氏はレーダーのオーソリティとなり、気象レーダーのデジタル化にも貢献した方である。